私も貴方も普通の子

 普通であることや特別であることに固執する人は、家庭とか学校とか職場とかのいずれかの団体で、「私たちとは違う」と判断されて、居心地が悪くなったり疎外感を感じたり虐げられたりしてきた人達なのだろうと思います。お前は違う、何か足りてない、そう言われて来た人達だと。
 まぁ皆々様大なり小なりそういう経験はあるでしょうけれど、そのときの体験が心に根付いたままの人達が、「普通」って言葉にどうにもこうにもこだわりが生まれてしまうんじゃないかなと。

 私個人としては、普通になりたかったし特別にもなりたかったです。劣等感が服着て歩いているような女なので、「大丈夫だよ劣ってなんかないよ」と言われたくて普通の子になりたかったし、「あなたには劣ってる部分以上に優れている部分がある」と言われたくて特別な人になりたかったです。
 小学生の私は(というか大体の人はそうだと思うんですが)自分の家の常識が世界共通の常識で学校の子が言う普通が世界共通の普通なのだと思っていました。
 だけれど多分、うちの親は世間一般的に見て結構変な人で偏った価値観を持っているし、そのとき過ごした地域には田舎特有の地域ルールがあって、どちらも全然世界共通のものなんかじゃありませんでした。
 当たり前の話ですけれど、貧乏人の普通と金持ちの普通は違うし、文化系と体育会系の普通は違うし、都会と田舎の普通は違うし、60歳と10歳の普通は違います。普通という言葉でくくられるものには、「私の生活圏ではこういう言動や思想が根付いてるよ!」以上の意味はきっとありませんでした。ここでいう生活圏が、家庭内の狭いコミュニティだったり国家規模の広いコミュニティだったりするだけの違いです。
 だから、普通であることにも普通でないことにも、大した意味なんてきっとないのでしょう。自分が楽なように過ごしやすくなるように、みんな好きに勝手にやればいいと思います。

 そんなことはわかっているのに、それでも「普通」という言葉にこだわってしまうとき、私達はきっとその後ろに優劣を見ています。
 「普通である」ということはつまり、「世の中の平均基準値にあらゆる能力が届いていて、馬鹿にされない」事だと考えて、それと同時に「世の中の平均基準値以上の際立った能力がなくて、尊敬されない」事だと考えてしまうのではないかと思うのです。
 自分は何かが足りていないんじゃないか、大事なことが欠落してしまっているんじゃないかと感じて、普通であることや特別であることに執着してしまうんじゃないでしょうか。
 「私は普通だ」と主張したがる人は「私は他の人よりも劣っているわけではない(私は欠落なんかしていない)」と言いたくて、「私は特別だ」と主張したがる人は「私は他の人よりも優れている(だから私の欠落には意味がある)」と言いたくて、皆が皆、ただただ「大丈夫だよ」って言われたくて、選んだ手段が違うだけなんだろうと思います。

 なんか、ものすごく当たり前の事を長ったらしく字数を使って書いてしまっているけれど、やたら個性個性連呼する人に会って、ちょっとイラッとしてしまったので書きました。個性個性連呼する人で個性的な人見たことないし、俺変わってるアピールする人は何故変わっていることがそれ単体で優位性を持つ事だと思うのか。謎です。皆ありふれているし皆ありふれていないよ。それを持った上でどうするかが大事なんだから、少数派であることは、それ単体では良いことでも悪いことでもどちらでもないよ。
 これは同族嫌悪でもあって、自分で自分にも言い聞かせていることでもあります。私は普通の子だし、あの子もあなたも誰も普通の子です。
 私は普通の子だねと言われると安心してしまうタイプなので(あんまりそう言ってもらえないから。)こう書いてしまうけれど、特別だと言われたいタイプの方は私は特別思考で全然めっちゃいいと思いますし。都合よくいきましょう。言葉は捉え方次第で意味を作り替えていけるものだと思うし、場面と基準を変えれば誰だって普通だし誰だって特別です。自分が好きな方を都合よく選んでいきましょう。いぇい。笑


 ブログ書くの…楽しいな…?ってことに気がついたので(笑)これからも多分ちょくちょく書きます。ここまで読んでくれてありがとうございます!では!!

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さいとーゆきほ

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