思いっきり本名でやっているから滅多な事書けないんだけど、諸々の都合で転職活動の必要性に迫られたから転職活動をしている。まあ詳しくは書いてもよくなったら書きます。本名でやってるとこういう時不便…会社の人とか取引先とか万一の万一で見てるかもしんないので…。。。
で、転職活動中の一環で、怒りをテーマに作文を書いてください。っていう試験があって。時数制限のある中書いたら最近考えてることとか今までの歌が何だか歌いにくくなっちゃった理由とか凝縮された文章が出来て、ブログにも転載したくなったので転載します。時数制限あるから無理にまとめたところとか、会社に向けて書いたから文体お固かったりとかするけど折角だからそのまま載せてしまうよ。
働きたい会社に向けて「私は比較的情緒が不安定な人間です」と自ら宣言している様な気もするけど、まぁ嘘ついて入っても続かなそうだしこれでいいのだ。
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誰かや何かに怒っている時、人は自分を被害者であり、正しさを有していると感じている。自身の大切な物事が不当に踏みにじられた、そう感じた時に人は怒りを感じる。
さて、怒りは“大切な物事が不当に踏みにじられた”時に感じるものであると書いたけれど、それは「もっと大切に扱ってほしかったのに」という、悲しみの言葉にも言い換えられる。怒りの感情には、悲しみの影が潜んでいる。
ビジネスマンが怒りを表明する場面は見かけても、悲しみを表明する場面はあまり見かけない。それは、悲しみという感情を表明するためには弱い自身を晒さらなければならず、交渉の場面において「実用的ではない」からだ。
怒りの感情は即物的にエネルギーに転じやすいし、何より自身が傷つかなくて済む。日々忙しく生活を送る人の中には「悠長に悲しんでいる暇もないし一々傷つきたくもない」と、「悲しみ」を全て「怒り」に変えてしまう人も多いだろう。
しかし、そうした事を続けていると、自身の「悲しみ」に気が付くことが難しくなる。それは、自身の感情に鈍感になるという事であり、人間らしさを殺してしまう事にも繋がる。自分の根本的な欲求の在処がわからなくなってしまうのだ。
情緒豊かである事が必ずしもいい事だとは限らないが、人生の舵取りをする時に自身の心の輪郭が見えない事は、恐怖である。強いモチベーションにしていた怒りが、本当は自分の弱さと向き合わないためのカモフラージュに過ぎなかった、という事も往々にしてあるからだ。
人の心は単純ではなく、自分で自覚している事が、本当の意味での本心だとは限らない。何が悲しくて怒っているのか。本当は何が欲しかったのか。自身の心に自覚的になる事で、私達は怒りを飼いならし、自身の心の輪郭を知ることが出来る。
それは、自身にとっての幸せが何かを知る事であり、私達が喜びの多い人生を歩んでいくために、とても大切な事なのだ。
さいとーゆきほ
ギターでオリジナル曲を弾きがたっている人のブログです。 ツイッターでは尺の足りない話があるときにつらつらと。 【Twitter】@happy_walk_ 【HP】https://ztips-orutana.wixsite.com/saito-yukiho
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